みなさん、こんばんは。
愛原 夢音です♪
芸能生活40年の山田邦子さんの著書、
「生き抜く力」が発売されています。
なぜ「生きる力」ではなく「生き抜く力」にしたのか?
その理由を、山田邦子さんが生きてきた
漫才界のエピソードから紐解いていきます。
「オレたちひょうきん族」や
「邦ちゃんの山田かつてないテレビ」のエピソードも…!
どうぞ、最後までお付き合いください!
Contents
芸能活動40周年の山田邦子が漫才をしようと思ったきっかけ
去年還暦を迎えた山田邦子さんは、1980年代に芸能界デビュー。
坂本美雨さんは物心ついたときから山田邦子さんを
テレビで、拝見していたそうです。
当時は、女性がお笑いをやるのは珍しかったのかと思いきや…
お笑いをやっている女性はいました。
ですが一人芸、いわゆるピン芸人はあまりいなかったのだそう。
山田邦子さんは当初、女優として活動していました。
スカウトされて女優の道へ進んでいったのですが、
それ以前からデパートの屋上やいろいろなホールで漫才をしていたんです。
“ダジャレがウケた快感”が漫才に目覚めたきっかけ
そんな山田邦子さんの、お笑いに対する”目覚め”は
何だったのでしょうか?
山田邦子さんが漫才をやろうと思うようになったきっかけは、
小学四年生のときに訪れます。
それは林間学校に行き、夜に出し物をやることになったときのこと。
山田邦子さんがたまたま言ったダジャレが、すごくウケたんです。
その快感が、漫才への道へ進む大きなきっかけになりました。
そのダジャレというのが、
「妖怪に呼び止められて、”何かようかい?”」。
それが、ドカンとウケたというんです。
当時10歳の山田邦子さんは、
その出来事に衝撃を受けたといいます。
山田邦子さんは、スカウトされて芸能界デビューを果たします。
芸能界デビューするときの周りの反応は、どうだったのでしょうか?
山田邦子さんはちょくちょくテレビに出ていたので
学校やクラスの同級生たちは、
「ああ、やっぱり!」
という感じだったそうですが、家ではその反応とは違い、
「えぇーっ!?」
と、かなり驚かれたそうです…。
山田邦子の著書「生き抜く力」から紐解く人生のヒント
そしてこのたび、山田邦子さんの半生が綴られた
「生き抜く力」という本が出されています。
“自分のことを書くのはどうかな…”と最初は思っていた
山田邦子さんですが、書いているうちに感謝の気持ちが湧いてきたそう。
いろいろな方にお世話になったことを実感しながら、
山田邦子さんは本を書いたといいます。
山田邦子さんの著書「生き抜く力」を読んだ坂本美雨さんは、
その感想をこう述べています。
「とっても面白かったです!
本当にいろいろなことを経験されて、
芸能界だけではなく個人的にもいろいろなことがあって。
でも、やっぱり楽しく笑いながらそれを
サバイバルしていくといいますか。
生き抜くヒントがこの中にはありますね。」
タイトルを「生きる力」から「生き抜く力」へなぜ変更した?
山田邦子さんの著書「生き抜く力」。
実は、最初は違うタイトルで執筆を進めていたんです。
それが、「生きる力」。
ですが、書いているうちに「生き抜く力」の方がいいと思うように。
コロナ禍で、商売をしている方だけではなく誰もが
悩んだり苦しんだり、大変な思いをされていると思います。
でも、その中でアイデアを出した人が勝つ。
“頑張っていこう”と笑顔でいる人の方が、
免疫力を高めるという意味でも非常に健康に良いわけです。
そのため、「生きる力」ではなくタイトルを
「生き抜く力」にしたということなんですね。
大人が”真剣に”ふざけてお金をもらっていた80年代
ここで、”当時の時代背景やテレビ業界、芸能界について
知りたい”と坂本美雨さんから要望が。
ビートたけしさんやさんまさんなど、
そうそうたるメンバーが顔を揃えていた当時の芸能界。
その中でもひょうきん族のイメージが、
坂本美雨さんには強いようで…。
当時は、大人がふざけてお金をもらっていました。
ふざけているといっても、真剣に、です。
ドリフターズがいて、「8時ダョ!全員集合」があって、
「オレたちひょうきん族」がいる。
仲が悪いと言われ続けていたひょうきん族とドリフターズですが、
実は仲良しだったんです!
笑うことに真面目で、いわゆるNGもOKになることも
少なくありませんでした。
というのも、面白ければいいからです。
1番NGなのは、つまらないことなので面白さを出すのに
必死だったといいます。
ビートたけしさんが話すと、台本と合っていないくらい
どんどん違う方向に行ってしまうこともよくありました。
「必死でしがみついていったから…そこではもまれた感じはありますね」
と、山田邦子さん。
当時のことを、こう振り返ります。
「みんな、ちょっとだけお兄さんだった。
私は短大卒業して20歳ぐらいでアクの強いところに入っちゃって。
みんな5歳くらい上で、その上にビートたけしさんがいて。
学校の先輩みたいな感じ。
でも、THE漫才が売れてその後にひょうきん族でほぼ同時に
売れたから、みんなも何がなんだかわからなくて。
“俺たちは、明日は大丈夫なんだろうか?”って、
お酒飲んだり泣いたりして。青春ですね。」
ビートたけしから届いた直筆の手紙
ビートたけしさんとの親交も深い、山田邦子さん。
事務所の先輩でもあったビートたけしさんの感謝が、
「生き抜く力」にはたくさん書かれています。
と同時に、迷惑をかけられていたことにも気づいたとか…。
山田邦子さんは、ビートたけしさんに手紙を書いたことがありました。
当時は、今とは違って携帯電話がない時代。
マネージャーに言って会うことはできたのですが、
手紙を書くことにした山田邦子さん。
後日、ビートたけしさんから直筆の手紙が届いたといいます。
宝物が、また一つ増えたと山田邦子さんは話します。
今と昔の芸能界 決定的な違いは”伝わらない”気持ち
この話を聞いて坂本美雨さんが感じた今との違いは、
生きている人の魅力がそのまま、直にテレビに出ているということです。
今は昔と違って、しがらみや作戦が巧妙になりすぎて
その人の本当の気持ちなのかどうかもわかりづらくなっています。
昔は”あたって砕けろ!”という人ばかりだったといいますから、
その人の気持ちがより伝わりやすかったのかもしれません。
制限の中で培われた”生き抜く力”
山田邦子さんはお笑いも含めた時代の流れや、
やってはいけないことが増えたことはあるのでしょうか?
まず、コマーシャル。
コマーシャルには、スポンサーがつきます。
醤油、車、お酒などの大手のCMに多く出演したことのある
山田邦子さんは、それらと敵対するようなところには
行けなかったといいます。
そんながんじがらめの中にいると、どうなるかというと…
ボキャブラリーが試されます。
言葉を変えれば、子供や高齢者がいても
遊ぶことはできるという気持ちに。
制限があることが、返ってよかったとか。
制限がある中で、どうしていけばいいのか。
制限があるからと諦めてしまうのではなく、
制限があるからこそ何ができるのかを考える。
これって、今まさに必要な力ですよね。
制限がある環境、そしてお笑い界の先輩から学ぶ環境。
山田邦子さんの生き抜く力は、そこで養われていきました。
山田邦子の好きな食べ物は?
ここからは、「背景、なじみたち」。
ゲストの方のプライベートな部分を覗いてみようというコーナーです。
山田邦子さんへの質問はこちら!
大好きな食べ物は?
山田邦子さんの大好きな食べ物は…
ガムです!
“ガムを食べるのは、人間くらいですよね”と山田邦子さん。
ここで、みなさん。
ガムはじっくりと噛む派ですか?
それとも、すぐに飲んでしまう派ですか?
ちなみに、坂本美雨さんは口に入れて2、3回噛むと
ついついゴクッと飲んでしまうとか。
一方の山田邦子さんは、ずっとじっくりと噛むタイプです。
ミント系もコーヒーガムも、梅ガムも。どんなガムでも食べる
山田邦子さんですが、中でも外せないのが風船ガム!
「下品ではあるけれども、クチャクチャやって、プーッと膨らませたい」
と、山田邦子さん。
プランターですいかを栽培?すいか農家の夢も
ガムの次に山田邦子さんが好きな食べ物は、すいかです。
あまりに好きすぎて、栽培するほどの熱の入りよう。
新潟の西区の砂丘のところにすいかの実がなるのですが、
7月頃には全部収穫されてしまいます。
ところが、新型コロナの影響で移動が
自由にできなくなってしまいました。
そのため、山田邦子さんは新宿にある自宅ですいかを育てています。
しかも、プランターで。
プランターでも、しっかりと野球ボールほどの大きさの実がなります。
それを収穫して、きれいに洗って醤油で漬けておくと
それがそのまま、おつまみになるそうです。
ぬか漬けにしても最高!
皮の部分は、柔らかい上に栄養がありますから、
食べられる場合は皮もまるごと食べたほうがいいようです。
山田邦子さんには、すいか農家という夢もあります。
それについて、山田邦子さんはこう話しています。
「自分が食べる分だけで良かったんですけど、
結構、”欲しい!”という人が多くなって。
もうちょっと、頑張らなきゃなっていう…。
収穫のときだけは手でやらなきゃいけないので、重くて大変。
トラックに運んでからはベルトコンベアーなんですけど、
収穫して運ぶところが重いわけですよ。
なので、プロレスラーを手懐けてる笑」
プロレスラーはまさに、適材適所!
収穫の際は、プロレスラーの手を借りているそうで、
とても助かっているといいます。
山田邦子農園がオープンする日も、近いかもしれません。
山田邦子さんのブログには、すいかグッズがたくさん
アップされていますので、そちらもぜひ見ていただければと思います。
名曲「それが大事」は何が1番大事?
ここで一曲、山田邦子さんがセレクトした曲をご紹介したいと思います。
みなさんも一度は聞いたことがあるこの曲。
大事MANブラザーズバンドの「それが大事」です。
名曲ですね。
この曲は、ヒットしてから30周年。
「山田かつてないテレビ」で、愛は勝つの後に大ヒットした
大事MANブラザーズバンドの「それが大事」。
今のコロナ禍には沁みる一曲ですよね。
- 負けないこと
- 投げ出さないこと
- 逃げ出さないこと
- 信じ抜くこと
これらのうち、”どれが1番大切ですか?”と言われたら、
あなたはなんと答えますか?
山田邦子さんによると…
大事MANブラザーズバンドの「それが大事」 で1番大事なことは、
負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと。
これらを考えることが、1番大事なのだそうです。
それを忘れなければいい、ということですね。
みなさん、「それが大事」 は
「山田かつてないテレビ」からヒットしたんですよ!
これ、結構重要です。
KANさんの「愛が勝つ」があって、
大事MANブラザーズバンドの「それが大事」 があって。
「山田かつてないテレビ」は、
数々の名曲を生んできた音楽番組でもあります。
そんな「山田かつてないテレビ」から生まれた「それが大事」 。
ぜひみなさんにも、聴いていただきたいと思います。
「笑顔と健康」があれば生き抜いていける
山田邦子さんの新刊「生き抜く力」についてお伝えしています。
ここからは、山田邦子さんの今後の挑戦について
お届けしていきたいと思います。
「生き抜く力」の第5章のタイトルは、”還暦の挑戦”。
山田邦子さんに、これからの夢や挑戦について
語っていただきました。
舞台は何度か挑戦しているのですが、
映画やドラマについては休んでしまっている状態。
芝居心があるうちに女優活動をしていきたいと話す、山田邦子さん。
コンサートのようなことは何度かやっているそうですが、
CDのリリースも考えていきたいと思っているようです。
You Tubeを始められた山田邦子さんは、最初全くわからずに
困っていましたが、スタッフに教えてもらうことで、
次第に面白くなってきたといいます。
しかも山田邦子さんを支えるチームには、かなり若いスタッフもいます。
19歳のスタッフもいるといいますから、驚きです!
そのことについて、山田邦子さんはこう話しています。
「私のこともよく調べてくれていて、
中森明菜ちゃんのファンなんです!って。
19歳が言うので…。
なかなか、良い時代が来たなと思って。」
番組づくりと同じように、テレビでの活動も力を入れている
やっていきたいと山田邦子さん。
山田邦子さんのやっていることは、いい意味で変わらない。
坂本美雨さんは、山田邦子さんの話を聞いてそう話します。
YouTubeになっても、どんな時代になっても
山田邦子さんの面白さや愛が根底にある。
坂本美雨さんは、そう感じています。
山田邦子さんは最近、嚥下場に出る機会が増えました。
これは、山田邦子さん自身にとって大きな収穫でした。
TVのお笑いは師匠もいないため、
なかなかルーツがなかったからなのか…
山田邦子さんは、嚥下場に出る機会がほとんどなかったといいます。
そうしていくうちに、後輩たちがどんどん偉くなっていて
いつの間にか師匠になっていました。
そして、その後輩たちが山田邦子さんを呼んでくれるようになり
嚥下場に出ることに。
舞台に出ると15分ほどのバスガイドのモノマネは
今でもやるのですが、それだけでは終わりません。
現代のモノマネなどを織り交ぜながら、
漫才をするようにしているんです。
これから先、どんな困難な時代になるかはわかりません。
でも、健康で笑顔があればいつまでも生き抜くことはできる。
今、まさにその「生き抜く力」が求められていると思います。
コロナ禍を生き抜くヒントが満載の、
山田邦子さんの著書「生き抜く力」。
みなさん、ぜひ手にとってみてください。
今後の山田邦子さんの予定や詳しい情報は、
オフィシャルブログなどをチェックしてみてください。