みなさん、こんばんは。
愛原 夢音です♪
2018年の突然の引退宣言から、3年後の現在。
小室哲哉さんが、帰ってきました!
引退宣言から現在まで、
どんなことを思い音楽と向き合ってきたのか。
そして復帰後、初の仕事となった乃木坂46への楽曲制作では
あの大物プロデューサーにダメ出しをされた…!?
そのプロデューサーとは、一体誰なのか。
その答えは、この記事の後半でお伝えします。
どうぞ、最後までお付き合いください!
Contents
小室哲哉が語る突然の引退宣言から復帰まで
小室哲哉さんがディアフレンズに出演したのは、5年前。
突然「やめます」と宣言されたのが、2018年でした。
休業したあたりから、左耳がかなり悪い状態でした。
その結果、突発性難聴と診断されて小室哲哉さんは入院することに。
それでも全然治らなかったので、半年くらいは
音楽を聴く気になれなかったといいます。
そこから、最初に聴きたいなと思ったのは
どんな曲だったのでしょうか?
それは、キースジャレットです。
小室哲哉さんが高校一年生のときに、友達がすごくかっこつけて
貸してくれたアルバムがありました。
それが、キースジャレットのフェイシング。
その頃のことを、小室哲哉さんはなぜか急に思い出します。
“ちょっと聞いてみようかなと思った”と小室哲哉さん。
聴くといっても、YouTubeのキースジャレットの動画を
見ながら音源を聴くという形。
ちゃんと聞くのにはまだ抵抗感があって、
まだ動画を通して見るということをしているそう。
そこから、リハビリしているというわけなんです。
中でも、小室哲哉さんの心を動かした曲があります。
それは、Over The Rainbow。
キースジャレットが実際に弾いているものが、
YouTubeにはアップされています。
これを聴いて、
“ああ、やっぱりいいなあ。優しいなあ”と思った小室哲哉さんは、
もう一回ピアノを練習してみようという気になったそうです。
今はちょっとずつ、ピアノを触っている最中とのこと。
復帰後初の仕事は乃木坂46の楽曲制作
突然の小室哲哉さんの引退宣言に、
驚かれた方も多くいらっしゃると思います。
やっぱり、音楽をまだまだ続けてほしい。
引退宣言の直後から、たくさんの方々から
そんな声をかけられた小室哲哉さん。
坂本美雨さんも、「どうですか?」と突撃LINEを送っていたようです。
そんな、小室哲哉さんを気にかけている方は他にもいます。
秋元康さんもその一人です。
去年、小室哲哉さんのもとに秋元康さんからLINEが届きました。
最初は本当に雑談のような話で、
「齋藤飛鳥わかるかな?」という感じのやり取りをしていました。
“小室哲哉さんのすごく曲を知っていました”とも。
「あの曲を書かない?」と最初に切り込むのではなく、
ちゃんとプロセスを踏んでくれたとか。
それから、「曲をつくってみない?」という自然な流れで
乃木坂46の楽曲を制作することに。
「でも、乃木坂46はすごいグループだからそんなに甘くないよ」
と、秋元康さんに言われた小室哲哉さん。
乃木坂46の楽曲制作のやり取りは、全てLINE。
最初から最後まで電話は一切していませんでした。
秋元康さんとは、LINEの文章のやりとりが繰り返されました。
もちろん、データもLINEで送ります。
LINEの文章でのやり取りをしていると、
相手から1行でも返事が返ってきますよね?
「これはどういう意味なんだろう?」
と、”結果的にはいろいろ考えてくれたのかもしれない”と
小室哲哉さんはいいます。
秋元康から学んだ”書き続ける”ことの大切さ
復帰後、初仕事となった乃木坂46の楽曲制作について
小室哲哉さんはこう振り返ります。
「久しぶりに、非常に厳しかったね。当たり前だけど、
秋元康さんが乃木坂46のプロデューサーじゃないですか。
なので、彼のプランがあるわけだから。」
小室哲哉さんは、楽曲制作を今も休まず続けています。
復帰後、乃木坂46のために書いた曲は6曲以上。
最初の3曲ぐらいを、かきあげて送ったところ…
「まだ久しぶりだから慣れてないよね」
という返事が。
“あ…慣れてないんだ…”と落胆しつつも、
曲はつくり続けなければいけません。
4・5曲目くらいになると、
「ちょっと難しいかな。もっと小室くんっぽくていいんだけどな」
というやり取りが何回か続き…。
6曲目でやっと、
「うん、なかなかよくなってきたんじゃないですか?」
という答えが返ってきました。
「あー、そっか、だめかあ…。やっぱり…ベタでいいか。
自分の感情でコード進行含めて。
これ、僕っぽくないと言われるかもな…」
そう思いながら送った7曲目は、
“いいんじゃないですか?”どころか、「これでいきます」と
一発でOKが出ました。
その過程も、秋元康さんの狙い通りのような気がもしますよね。
先程、小室哲哉さんは今も曲を書き続けていると述べましたが…
なぜ書き続けているのかというと、
秋元康さんから激励の言葉をもらったからなんです。
その言葉というのが、この2つ。
“これで終わったと思っちゃうとだめだよ“。
“まだまだこの先も続けるために、曲を書きましょう“。
秋元康さんと小室哲哉さんは同い年。
ですが、人脈的なことも含めて大先輩なので
とても助かっているし助けられているといいます。
こうして、2020年7月に発売された乃木坂46の楽曲
「Route246」が誕生したんですね。
「歌詞の世界観が相当違う」小室哲哉が驚いた音楽の変化
小室哲哉さんは、現代の人たちの歌詞を猛勉強中。
90年代の頃、小室哲哉さんは曲をつくる際に2字熟語を
歌詞の中に多く入れていました。
例えば、目的とか。
ですが、今の時代のアーティストの歌詞のほとんどは羅列がすごい。
四字熟語も当たり前に入ってきます。
小室哲哉さんによれば、音楽自体の流れはそこまで変わって
いないのですが、歌詞の世界観が相当変わっているといいます。
その理由の一つには”コロナ禍も関係しているかもしれない”との
ことですが、小室哲哉さんはあまりの変化に驚いたとか。
復帰して間もない小室哲哉さんですが、
自分で思いを綴ることはまだできないようで…。
歌詞の入った曲はまだ聞けず、
インストルメンタルをよく聴いているそうです。
小室哲哉の今後の活動は、まず”勉強”
2月24日に、1989年の12月に出た小室哲哉さんの
ソロデビューアルバムの特別編集盤が発売されました!
その名も、「Digitalian is eating breakfast SpecialEdition」。
昔の原点とも言える作品が、また改めて形になりました。
この中には、リミックスも収録されています。
小室哲哉さんは、ついこの間、配信の番組に行ったときに
一日ぐらいで軽くリミックスつくったショートバージョンの
楽曲をお披露目しました。
その曲も出すのかどうかは、今のところ検討中。
もしかしたら、近いうちにその曲を聴くことが
できるかも…しれませんね。
現在、62歳の小室哲哉さん。
坂本美雨さんは、
「どんどん新しいものも出してほしいし、プロデュースもしてほしいな」
という気持ちでいっぱいのようですが…。
小室哲哉さんは、これからどんな活動をしていきたいと
思っているのでしょうか?
まず最初に小室哲哉さんの口から出たのは、”勉強“という言葉。
自分がどうすればいいとか、どうしたいのかと
いうところまではいっていない。
それが、小室哲哉さんの今の状態です。
このコロナ禍という状況下で、たくさんの人が
「いいね!」という曲にはどういうものがあるのか。
そして、どういう理由でたくさんの共感を得ているのか。
それを、小室哲哉さんは今考えています。
小室哲哉さんが誰かのためにとか、ヒットを考えてとかではなく
純粋につくりたいものっていうのを聞きたい。
そう話す、坂本美雨さん。
「それと、小室哲哉さん自身が考えているものとは別なのか?」
という、坂本美雨さんの質問の答えはこうでした。
やっぱり、やりたいことはヒット作品だと思う。
そこはやっぱり、初心に返ってTM NETWORKで
ヒット曲をつくりたいというエネルギーが1番にあると
小室哲哉さんは考えています。
そこにもう一回戻れたら最高だなと思っているそうですが、
今の状態はその手前ぐらい…ということなんですね。
小室哲哉の”わがまま”から生まれる新たな可能性
森永乳業カフェトーク。
ここからは、ゲストの方にもっとリラックスして
いただこうというコーナーです。
小室哲哉さんへの質問はコチラ!
子供の頃から変わらないことは何ですか?
小室哲哉さんが思う、子供の頃から変わらないことは…
わがままなところ。
やりたいことはどうしてもやりたい!と思って
行動するということなんです。
わがままなところは、小さい頃から今まで受け継がれてきました。
たとえば、「EXPO’70」という大阪の万博。
何が何でも行きたかった小室哲哉さんは、親にずっと
お願いをして粘った結果、念願叶って連れていってもらえることに。
このとき、学校を休んで行かせてほしいということを
先生にお願いしました。
なぜかというと、土日はかなり混むからです。
だから平日にしてもらいたいと頼んだんですね。
すると、
「小室くんが大阪万博に行ってきます」
と、クラスのみんなの前で先生がまさかの宣言!
「行ってくるので、ちゃんとみなさんにどうだったかを
報告してもらいましょう」
ということに。
それほど、何がなんでも行きたいと自分の気持ちを強く
伝え続けていたということなんです。
ご両親は割と寛容だったのかというと、そうでもありませんでした。
寛容だったのは、どうやらお父さんだけだったようです。
万博には、お父さんとお祖母さんと一緒に行った小室哲哉さん。
「連れて行くのは、とても大変だったと思う」
と、小室哲哉さんは振り返ります。
移動のときでも「ひかり号に乗りたい」と言ってみたり、
〇〇館には絶対行きたいと言ってみたり、月の石は見たいと言ったり…。
そんな万博で得たものが、現在の小室哲哉さんの
音楽人生の始まりとなります。
それが、冨田勲さんのシンセサイザー。
そこから、全てが始まったということなんですね。
もし、小室哲哉さんが万博に行かなかったとしたら…。
冨田勲さんのシンセサイザーにも出会っていないということですから、
今の小室哲哉さんはいないですよね。
そう思うと、人生の転機はいつ訪れるかわからないなあと感じました。
“どうしてもやりたい!”というわがままのような強い気持ちから、
また未来につながる何かがあるはず。
そんな気がします。
復帰してまだそれほど時間は経っていない小室哲哉さんですが、
これからの活動に注目していきましょう!
ここまでお読みくださり、ありがとうございました!
次回もお楽しみに…♪